性表現規制vs表現の自由

このエログは⋯人間の欲望にまみれたオカルトの中のオカルトを語っております。霊体とセックスする方法について考察しております。いわゆるアストラルセックスやチャネリングと呼ばれるものになります。オカルトと言う特殊なジャンルの中においてですが⋯性に関する考察をしている者として、いずれは見解を示したり、立場を表明せねばならない話題になると思う。性表現規制と表現の自由のジレンマについてだ。結論から述べると⋯昨今のこの手の議論には懐疑的である。議論の本質から大きく逸脱している感が否めず、問題のすり替えに他ならない。具体的には⋯今ようなフェミニズムのあり方による性表現規制論とそれに対する反論だ。また、恋愛感情を揺さぶり性愛への憧れを誘う性表現は尊いと思うし、むしろ、青少年の健全な育成に役立つと思う。
大切な前提条件
変な誤解をされると困るので、本題に入る前に言っておきたいことがある。まず、私自身はフェミニズムに反対的な意見は持っていない。フェミニズム自体は近代民主国家において啓蒙されるべき当然かつ健全な思想である。また、伝統保守を否定する意図もなく、守るべき文化的、歴史的な価値観であり、社会の秩序を保つために必要なものであり、先人を敬うのは成熟した国家の証だ。恋愛感情を揺さぶり性愛への憧れを誘う性表現は尊いとも述べたが⋯もちろん、適法適性であるのが前提条件である。違法性のあるものや犯罪的な心理を醸成、誘発する恐れのあるものは排除すべきである。常日頃からセックスの素晴らしさを教え説いているが⋯不同意性交やレイプは人間性を放棄する最低最悪の行為である。犬猫などの動物じゃあるまいし、こんなものは極刑でも良いと思っている。
大人なら潜在的な性欲を表面化させるな
赤いきつねアニメCM問題に見るよう⋯もはや、潜在的な性欲レベルでの低次元な議論であり、底の見えない不毛な論戦と化している。ソーセージやバナナまで店頭から消えてしまう。無意味である。別に公共の電波で流されたものでもない。嫌ならば見なければいい。また、性意識を触発する恐れのあるものを、そう思わせる演出で描写するのも控えるべきだと思う。どちらにしても大人ならわかる話だ。全裸の女性がカップ麺を啜っていたなら怒っていい。食品系のサイトでそんなものを見せつけられたら不快だ。まぁ、昭和はそんなCMが普通に流れていたが⋯また、この世は男と女がおり感性は十人十色となる。どのような要素も性的に受け止められる可能性はある。その点は情報を発信する側も頭の片隅に入れておくべきだろう。そもそも、広告戦略と心理学は表裏一体だ。
個人的な性認識の問題を社会問題にすり替えているだけ
昨今の今ようなフェミニズムは⋯ただの男性嫌悪が実態であり、男女平等の原理原則から大きくかけ離れ、男女間はもとより様々な性認識を持つ人達の間で憎悪の感情を煽ろうとしているだけの反社会的な運動に過ぎない。本物のフェミニストはそんな一円の価値にもならないことに加勢している暇はない。多くが学業や仕事で多忙な日々を過ごしているものだ。これに対して反論する側も慎重な姿勢が求められる。彼女らの思惑に乗って女性嫌悪へ先鋭化、同じ穴の狢にならないよう注意が必要だ。極端な論法で世を騒がす人は磁石の如く対極となる同類の価値観を引き付けやすい。これらの根底にあるものは⋯物心が付き始める幼少期での性認識のあり方、フロイト心理学的に言う男根期に由来している。男根期での歪みは⋯将来、芽生えるであろう大人の性欲に悪影響を及ぼす。
つづく⋯