性欲と死生観のアウフヘーベンで人生の幕を閉じる

2026.09.01
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生命の本質は種の存続にあります。個体としての命は限られたものとなるため、生殖と交配を続けねばなりません。死も生命の本質であり、個体数調整や遺伝子交配による自然淘汰、進化を促すため⋯寿命が設けられ、世代交代を行わせる必要もある。とても残酷な真理だと思います。でも、それが生命です。まぁ、深刻に考えても致し方ありません。人生はできるだけ長く楽しく過ごしましょう。そんな訳で性欲と死生観についても考えてみたいと思います。性は生なり⋯その対局にある死もまた性と深い関係にあります。人が生きている間に甘受することができる最強の快楽、変性意識はセックスですが⋯なぜ、セックスは気持ちが良いのか?さらに⋯人は死ぬ瞬間、セックスの200倍気持ちいい快楽に包まれ、人生で最高の脳イキがたった一回だけ堪能できるらしい。

セックスと死

死後硬直の類似生理現象として⋯死後勃起なるものがある。男性は死ぬと陰茎が勃起することがある(極めて稀だが射精する場合もある)。女性はクリトリスがそうなるらしい。もちろん、全員ではないが⋯人は死ぬと結構な割合でそうなるらしい。人間以外の生命の場合⋯射精したり産卵したら、そのまますぐに命が尽き果ててしまう種は多い。セックスはある意味で死を迎え入れるための準備、原始的生態の一種と言えるのかもしれない。人間のような高等動物はセックスと死の乖離が進み、最後に⋯死を伴うセックス本来の極上の快楽だけが取り残されているのかもしれない。まぁ、医者でもない自分がこんな話をするのは不適切かもしれないが、オナニー等の自慰行為も含め、性的行為によって体感するオーガズムは、死の直前を疑似体験しているものになるとも言えるだろう。

人生における無意識の課題

死後勃起自体は⋯性的興奮によるものではなく、様々な条件により死亡時の血流急変により、血液が海綿体に流れ込んでいるだけに過ぎない。故に血液が重力に従って下半身へ流れ落ちやすい状態⋯絞首刑にされた者、頭を心臓より上にした状態で死亡した者にほぼ見られる現象らしい。まぁ、こんな話は頭の片隅に入れておいてもらう程度にして⋯性的快楽の甘受は、死への収束的な行為なのかもしれない。しかし、死への近接ともまた違う。性欲が強い人ほど寿命が長い傾向にある。これは国内外の多くの研究機関でデータとして確認されている。人間の場合、他の動物と異なり、性欲とどう向き合いながら生きていかねばならないのかを⋯無意識の課題として持つようになった生き物だと言えるだろう。フロイトからマズローまで、多くの心理学者が性欲と人生の関係性を説いている。

性的葛藤のはじまり

フロイト心理学の心理性的発達理論になぞらえたタルパの作り方を提唱しているが、夢占い師は必ずフロイトやユングの心理学を学ぶため、そうした独自色の強いものとなっている。フロイト心理学を学ぶにあたりショックを受けたものとして⋯エディプス・コンプレックスの元ネタとなった逸話にある。特殊な恋愛事情にある自分でさえも吐き気を覚える内容だ。まぁ、各自で調べて見てほしい。流石に母親に対して情欲なんて気持ち悪い(笑)。いずれにしても、人は深層心理で⋯今のような自分の発言に見る性的葛藤を体験する。女性の場合、性的葛藤の対象は父親となるのでエレクトラ・コンプレックスと呼ばれるものになる。本当に気持ち悪いと思うが⋯男根期と呼ばれる成長期において、誰の身にでも起こる幼児性欲の一種で、これを原点に無意識の課題は始まる。

思春期以降の性的葛藤はどうなる?

セックスと死の乖離⋯あくまでも当方の持論であるが、少なくとも、加齢と共に生殖能力の衰えは避けられない。フロイト心理学で言う幼児性欲から性器性欲への昇華同様、思春期以降は大人の性欲をマズローの欲求五段階説に沿わせる形で、より高い次元のものへ昇華させて行かねばならないと思う。最終的に承認欲求との向き合い方が⋯自己実現を果たすための大きな課題となるだろう。承認欲求は性欲を生産性や創造力に転換するための主要な要因にもなりますからね。より幸福な人生を過ごすためには⋯これに対する気づき、克服は早い方が良いのは当然だ。しかし、この世に完璧な人間なんて一人もいない。賢者は歴史に学ぶと言うが⋯やはり、経験は大切だ。生きて行く上で知識だけではどうにもならない。中年以降からでも遅くはない。じっくり自分の性欲と向き合おう。

中年以降は生殖能力と性欲は別物として考える

何度も言うが⋯承認欲求自体は悪いものでなくゼロであってもいけません。適切にコントロールされたものなら成長を促します。人間は社会的な生き物で一人では生きていけません。自分が必要とされ大切にされる環境を見つけましょう。そうすることが自己実現の第一歩となります。自己実現と言うと何か胡散臭いものに思う人がいるかもしれませんが⋯金銭詐取を目的とした、怪しい自己啓発セミナーや得体の知れない新興宗教団体が心理学用語を悪用しているだけです。とりま、限りある寿命の中で、性的興奮による高揚感を物事のやる気に変えて、達成感や充実感をオーガズムの代替として自分の中へ刷り込んで行くことで、充実した社会生活が過ごせるようになります。変態的に思うかもしれませんが⋯性欲はこうした形で生産性や創造力のエネルギー源として活用していきます。

中年以降は性欲を精神的な次元へ持って行こう

性欲のこうした意識的な活用方法は⋯加齢による生殖能力の衰えとは無関係なものとなり、性交ならぬ成功体験を積み重ねることで人生は充実して行きます。それは小さなものをコツコツで構いません。生殖能力と性欲の区別化により⋯性欲を完全に精神的な次元へ持って行けます。ただ、健康管理の側面からオナニーやセックスは何歳になっても⋯まぁ、限界まで習慣として維持すべきだと思います。しかし、老齢期以降にそれもちょっとどうよとも思います。年齢相応に性と向き合わないと何だかカッコ悪い。将来、ただのスケベ爺さん、色ボケ婆さんになんかなりたくないでしょう。とりま、精神的な次元へ昇華させた性欲を、生きがいのパワー、エネルギー源として自由自在に活用できるようになれば⋯まるで、高僧や仙人のような境地へ突き進むことができるようになります。

性器性欲の最終形態

セックスやそれに準じた性的行為であるオナニーは⋯生と死と言う矛盾した概念を超越する行為になると思う。いずれも極めて強い変性意識状態となる。変性意識とは⋯肉体と精神が解離する非日常的な感覚となる。まさに、人が肉体を失い幽体だけとなる瞬間と言え、上述した死の直前を疑似体験している状態と言える。変性意識は様々な条件下でのものがあり、程度の差も大きいが⋯夢を見ている状態がそれに次ぐ強さのものとなる。まぁ、セックスしている時に幻覚夢のようなイメージが見える時もある。だから、死後の世界は永遠の夢見の世界になるのかもしれない。フロイト心理学を独自研究、考察しているが⋯フロイトが提唱したタナトス(死の欲動)、デストルドーに関しては、いまだに深い理解が及ばないでいるが、性器性欲の最終形態になるのかもしれない。

自他境界の消失そのものが悪い訳でもない

思春期(性器期)で幼児性欲からの脱皮、男根期の追認が十分に行われないまま大人になると⋯自他境界が曖昧となり、深層心理に潜んでいる何かで情動を露わにさせやすくなると思う。ただ、自他境界の消失そのものが悪い訳でもない。慢性的にコントロールされていない状態が好ましくないのであって、日常生活に支障が出るレベルなら、何らかの精神疾患に該当する可能性がある。自他境界の消失も⋯必要に応じて一時的に体感すべきものとなる。セックスやオナニーで感じる性的興奮、オーガズムがそうだ。強い変性意識による自他境界の消失(肉体と精神の分離、性行為による他者精神との融合)は、自我の霧散や崩壊に近く、無への回帰⋯タナトス願望と重なる。性欲(リビドー)を永遠のものにするため死へ向かう⋯次の世代に命を譲り自らは無に帰す使命感である気もする。

セックスの限界を悟れ

性欲を究極体形化させる死生観が理想の「死」と言えるだろう。死は絶対に避けられないものである以上、それに向かって修練して行くしかない。改めて言うまでもないことだが⋯性欲の究極体形化とは、肉欲的な性器性欲を精神レベルにまで完全に昇華させた状態を言う。セックスやオナニー等の性的行為をしたいと思わなくなると言うより⋯生産性と創造性への変換を極めると、日常生活レベルの行動で性欲が十分に満たされるようになるのだ。とは言え、それが徐々に実感でき始めるのは三十代中盤以降あたりからだろう。二十代の頃はパートナーと毎日のようにセックスしていたが⋯三十代からはセックスも大事だがセックスよりももっと大事なセックス以上のセックス的なもんがあると確信を得始めた。どんなにセックスが上手になっても⋯限界のようなものを感じたからだ。

死後の世界は形而上的なセックスの夢

限界を突破してみたい意欲にも駆られたが⋯どんなに腰を振っても「解」のようなものは得られなかった。とりま、若いうちは腰を振っていればいい。そのうち飽きると言うよりは達観できるようになるだろう。尚、以上の話はタルパやイマジナリーフレンドにも応用可能なので、現実のパートナーがいない作るつもりがないと言う人はそれで構わない。最高の死を迎え入れるためにも、性欲の力で人生を充実させて行こう。もしかしたら⋯天国はセックスの200倍気持ちいい境地で見れる幻覚夢かもしれない。時間が無限に引き延ばされているように錯覚する夢⋯それが死後の世界の正体かなと思う。セックスは快楽であると同時に苦痛の要素もある。地獄はセックスの苦痛だけを感じる世界で、人生を怠惰に過ごして来たような者が、悩ましい走馬灯を見た末に見る夢かもしれない。